お前には感情がない

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悩みはだいたいパートナーに聞いて貰っているが、友達にすることは少ない。
特殊な事情で共感がされにくいだろうこと、重い内容で負担を掛けてしまうのが忍びないということ、主にはそのふたつの理由からだ。
それでも誰かの意見を頂戴したいときは、カウンセラーさんに話すことにしている。


今までに、国家資格持ちの方、民間資格持ちの方含め2桁くらいのカウンセラーさんと話したと思う。
その中でときどき指摘されることが
「話し方に抑揚がない」
ということ。

もっと正確に伝えてくれたカウンセラーさんもいた。
「嬉しいこと、楽しいことには感情を出すけど、怒りや悲しみを出さない」


ご指摘の通りだと思う。
今までの文章を読み返してみても、苦しい体験の話になるとあらすじを話すがごとく無感情に語っているように見えるときがあるなと思う。



大学を卒業するときくらいまで、俺の感情は起伏に乏しかった。
小学生の頃はいわゆる陰キャのグループに属し、家族の差し金でときどきいじめのようなものを受けながら、「死にたい」とひとり呟く毎日だった。
海外の学校に転校させられて温かい友達に恵まれてからはだんだん人に心を開くようになり、幼い頃から評価されていた「面白い」ところを生かしてお祭り野郎的な、ピエロ的な位置についた。
悪戯がひどく、学校でなにかおかしなことが起これば俺の仕業ということにされた。
中学高校時代は毎日腹が痛くなるくらい笑っていた。
それでも時々友達にこう言われた。


「お前には感情がない」


感情を取り戻した今になってみると分かるが、成人するまでの自分はまるで人形みたいだった。
感情を出さないわけではないが、表層的で深みがなかった。
それに憤った友達に感情を出す訓練をさせられたことがある。


「こう言われたら悔しいだろ?怒れ!ほら怒れ!」


わざと俺を挑発し怒らせようとしてくれたが、そんなことまでしてくれる友達の気持ちがありがたいと思うばかりでまるで怒りが湧いてこなかった。


「駄目だこいつ……」

ふにゃふにゃしている俺に呆れて彼は匙を投げた。



10代の頃の自分は恐らく、乖離のような状態にあったのだろう。

解離(かいり、英語: Dissociation)とは、無意識的防衛機制の一つであり、ある一連の心理的もしくは行動的過程を、個人のそれ以外の精神活動から隔離してしまう事である[1]。抽象的に表現するならば、感覚、知覚、記憶、思考、意図といった個々の体験の要素が「私の体験」「私の人生」として通常は統合されているはずのもののほつれ、統合性の喪失ということになる[2]。
(Wikipediaより抜粋)


苦しい日々に耐えるため、感情をあえて鈍くしていたのだ。
10代の頃と比較したら、かなり感情を取り戻したはずだが、カウンセラーから受けた指摘から察するに、苦しい体験を思い出して話そうとすると自動的に感情が別のところに格納されてしまうようだ。


そういえば、ストレスフルな毎日に潰されて心療内科を訪れたとき、先生から
「君みたいに明るい人はうつ病じゃないんだよ!」
と大笑いされた。
これが初めてのことではなく、別の心療内科でも同様の理由で一笑に付されたのだが。
だが「一応やってみるか」と受けさせて貰った心理テストで、うつ病と診断されうる充分な根拠が示された。

「君は対人関係には一切それが現れないタイプなんだね、無意識に人に気を遣っているんだろう」

どうやらそのようで、人に対して自分の苦しみを表現しようとするとまるで何も感じていないかのような、平然とした調子になってしまうのだ。



ここでは自分を剥き出しにしようと決めていて、自分の内面をありのまま表現しているつもりなのだが、この辺りは根が深いようで一朝一夕に治るものではないようだ。
震災時に家を津波に流され、家族を失った当人がインタビューににこにこ答えている様子に「不謹慎だ」「薄情だ」という批判が向けられているのを見たことがあるので、事態を軽んじてそうなる訳ではないんだよということをエクスキューズしておきたかった。

そして俺以外にも、辛いことのはずなのに平気そうにしている人がいたら、どうかこのことを思い出してあげて欲しい。


photo: pixabay