心のデッドゾーン

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近年になって、他人への気持ちが"終わってしまう"状態になるようになった。
それを俺はデッドゾーンと呼んでいる。
本来デッドゾーンは『海や湖沼で発生する無酸素、貧酸素の水域』のことだがそういう意味として使ってはいない。
また、ビジョン心理学における、『乗り越えられない壁を感じている時期』のことでもない。


俺は人に対して掛ける情を、延々と保ち続けるほうだった。
一度好きになったら、なにがあってもその気持ちが変わりにくいということだ。


ところが、弟に対してあるときに気持ちが"終わった"。

久々に弟から電話があって、ある相談事を持ち掛けられた。
それに回答した後に、近況を尋ねられたので「ストーカーに遭っていて辛い」と本当のことを話した。
その瞬間のことだった。

「ストーカーがお前と同類だからだろ!」

と異常にいきり立ったテンションで怒鳴られた。

「お前がまともじゃないからそんな目に遭うんだろ、みんなお前がおかしいと言っている。俺の彼女からも言って貰うから!」

とそのときちょうど傍にいた彼女に電話が受け渡され、一度も会ったことのないその人から唐突に説教を受けた。
音楽の道でやって行こうなどと甘い考えで、まともな職に就きもせずふらふらしているだの、そういった業界には変な人種しかいないのだからそういう悪質なファンがつくのは当然だの。


「弟から与えられた一方的な情報に基づいて、唐突に他人に意見できる人間の常識のほうを俺は問いたいね!」
そう口にしたかったが、怒りのあまりに身体が震えて言葉が出なかった。

「将来、兄になる人だから、あえて言わせてもらいました!」

いいことをした!という満足げな語気で彼女は言葉を締めくくった。




この瞬間、俺の弟に対する情が自分の中から消え失せた。
愛想が尽きるとは、まさにことのことなのだろう。


俺は弟と一切の交流を断った。
弟が来る集まりでは一切口を利かなかった。
今は弟と結婚している件の彼女に対しても同じことをした。


そうなって初めて弟は狼狽し、俺を恐れてビクビクするようになった。
俺の顔色を窺いながら猫なで声で話しかけてくるさまに、いっそう心は冷えた。
優しくすると増長し、冷たくすると媚びてくる。彼らは俺とはまったく違う生物なのだと悟った。

大人げないと父親母親ともに俺を非難したが、俺は動じなかった。
今は亡き父親の遺言は「弟と仲良くしてくれ」というものだったが、仲良くする能力がないのは相手のほうなのだ。
なぜ彼らは自身は好き放題に怒りをあらわにして暴れまくるのに、俺には一切それを許そうとしないのだろう。
なぜ俺にだけ、人間業では到底成し遂げられぬ高い要求をして当然だと思うのだろう。


分かっている。
無意識の領域で、彼らの親だと見なされているからだ。
むずかり、癇癪を起しても、機嫌よく自分の世話をして欲しい。
オシメが濡れているのが気持ち悪くて手足をばたつかせたさいに俺をはたいてしまったとしても、自分自身の腕力が大人のものであることに気付きたくない。ただひたすらに「よちよちいい子ちゃんですね」と俺にそれを許容されたい。
「いい加減てめぇのケツはてめぇで拭けよ!」
などと突き放されることは、絶望的な悲しみなのだ。

だから俺は尽くしてきた。
憂さ晴らしのサンドバッグとして、頼れるカウンセラーとして、世間に自慢できるヒーローとして。
家族全員の親として。
他人からも親の役を求められ、責められ放題いるこのとき、ひとかけらの温情をも与えられることなくその役を全うし続けろというのか。
もうこれ以上、頑張れない。



俺はそのとき家族に別れを告げた。
心の中で。
そのときに家族への情は断たれた。



サバサバして、乾いている。
何も感じない。
いや僅かに心の底に張り付いているものがある、嫌悪感、さらにその下にあるものは寂寥感。

この心理に至ったとき、不思議なものでそれが相手に伝わるのだろう、家族は俺を攻撃しなくなった。
俺を攻撃させないために必要だったのは、常に彼らを恐れさせ顔色を窺わせること。
犬の序列決めのようだ。
彼らとは永遠に、俺の思い描くような、人間らしい関わりを持つことができないだろう。
そのことがとても、とても悲しいが、仕方ない。



このことがあってから、他人に対して自分の気持ちをデッドゾーンの領域に入れることが容易になってきた。
あまりいい気分ではないから進んでそうなりたい訳ではないのだが、安全装置のようにそれが働くのだ。
この関係にはもう投資するべきではない、そう心が判断し諦めとともに撤退する。
こうなったほうがむしろ、厄介な人との人間関係はうまく行くのだ。


こういう話をすると、家族を見捨てるなんて酷い、家族を犬扱いするなんて上から目線、みたいな主旨で抗議されることがある。
そのくらい、俺の立場は共感されないものだと理解している。
だがここでは自分を最優先にすると決めたから、そうした人の気持ちを掬い上げ、遠慮して黙るなんてことはもうしない。
だって、自分自身を犠牲にして俺は何が得られるんだ?
せいぜい「自分の親代わりになってくれるかも」という、他人からの不毛な期待だろう?


photo: cocoparisienne/pixabay