いい人をやめるとき

f:id:ak_hotblood:20210921141511j:plain


"いい人をやめましょう"
近年よく聞かれるようになった言葉だ。

この言葉で楽になる人はいいだろう、それまで無理をしていたのだろうから。
でも、それが演じたものではなかったのなら?

 

2017年7月19日、人懐こい犬とウィリアムズ症候群と呼ばれる発達障害の人間に遺伝的類似性があることが発見されたと研究論文を通して発表された。
ウィリアムズ症候群について詳しく説明することはしないが、この難病は人を過度に社交的にさせるので、出会う人すべてを愛しまくる奇病と称されている。
人懐こく、素直で、人を疑わない、人を褒め、人に共感しやすく、他者への偏見を持たず、誰にでも馴れ馴れしい。

自分の性格を犬っぽいと称することがあったが、正確にはウィリアムズ症候群の人たちの性格と類似性があるということなのだろう。


20代のいつか、帰郷したときに隣家のおばさんから
「あんたは小さい頃から意地悪なところがまるでなかった」
と言われた。

自慢ではなく事実としてその通りなのだ、俺は他者に対してほとんど意地悪な発想をしない。
それは一般的に善性と見なされる性質だろう。
だが人の性質における善性は、他者の生存を有利にするから賞賛されるのであって、それを持つ当人を助ける傾向であるとは必ずしも言えない。
むしろ他者を傷付けることを好まず、他者の傷に寄り添わずにはいられない傾向を持つ人間がこの現実を生き抜こうとするとするときには甚だ困難を伴う。

父親と弟はともにDV傾向が高く、頻繁に癇癪を起こしては暴言を吐き、物を投げ飛ばしたり、生き物を殴ったりしていた。
最初は俺が幼かったこともあって母親やペットが父の暴力の対象だったが、彼らを庇っているうちに主たる攻撃対象は俺になった。
母親はいいスケープゴートが現れたとばかり見ぬふりを決め込み、ときには父親や弟と一緒になって、その都度吐かれる雑な言葉を纏め上げれば「人を無慈悲に蹂躙することができない腰抜け」という主旨で俺を嘲った。
「顔が嫌い」「息を吸う音がムカつく」
俺を攻撃する動機などそのうち彼らにとってなんでも良くなったのだが。
なぜそれほどまでに彼から憎まれなくてはならなかったのか、家族は俺の悪評を親戚や学校に触れ回り第三者によっても俺が虐められるように仕向けていた。
家庭にも親戚の集いにも学校にも地獄が広がっていった。

幸いだったのは、俺に愛着を持たない母親ができるだけ俺を遠ざけたがっていたことだ。
母親は、諸事情から子供を持つことが叶わない資産家の夫婦に同情したという体で、養子として俺を送り出そうとしていたが、その計画が暗礁に乗り上げたので海外の全寮制の学校に俺を押し付けることにした。

そうして厄介払いされた俺だったが、運のいいことに、海外の中学、高校では人間関係に恵まれた。
彼らはもれなく裕福な家庭の子供であるから、心身が満たされている人間が多かったのだと思う。一部に意地悪な人間もいたが、残りのほとんどは俺を除外せず、いじめもしなかった。
ウィリアムズ症候群の人々は
「知らない人について行っちゃいけません」
「人を簡単に信用してはいけません」
と厳重に注意しないと簡単に危険に巻き込まれる人々だというが、俺自身、彼らから同様の注意を受けてきた。
「この世の中を渡っていけないよ、そんな性格じゃ!」
そう心配され、危なっかしい俺の面倒をみんなして見てくれた。
そして生きるための術を色々と教えてくれた。
しょうがない奴だと呆れながら、でもお前が好きだからと。
親の役目をしてくれた中~高校時代の友達には思い返すだけで涙が滲むくらいの感謝を抱いている。


悪意のある人間が存在するということを前提に行動することを学び、大学を卒業するころにはずいぶん普通の人間らしくなっていたが、それでも俺の人生は楽なものではなかった。
自己愛性パーソナリティ障害の傾向を持つ人間にとにかく好かれる。
優越している自分を感じ続けていないといけない彼らは、他者からパワーを吸い取って自分を飾り立てようとするが、優越することに興味がないから彼らにあっさりと勝ちを譲ってしまうし、人を喜ばせることが好きだから彼らに功績を奪われ放題にさせてしまう。
しかしながら見下せる存在として馬鹿にされることも、搾取されることも好まない俺は当然の権利として彼らのもとから離れようとするが、美味しい餌であるところの俺を彼らは何としてでも離したくない。
そのため俺は、彼らから延々と執着されることになり、いわゆるストーカーのような存在を作ってしまう。

前者ほどではないが、境界性パーソナリティ障害を持つ人間にも好かれる。
精神的援助を死に物狂いで欲しているその人たちの悲鳴を無視できなくて、その痛みについ寄り添おうとしてしまうからだ。
この人たちは援助が充分でないと見なすや否や、自分を攻撃したり相手を攻撃したりして猛抗議して来る。
底の抜けたバケツに水を灌ぐがごとく、その人たちを満たすことは至難の業だ。

その人らのお陰で、俺は積み上げた業務上の実績をぶち壊され、人間関係を破壊され、住居も追われ、精神的な死を二度経験させられた。
その二度ともに鬱状態に陥り、何年も立ち上がることができなかったが、自分の何が問題であったかを必死で反省し続けた。

その一環としてここ数年は、"悪い人間になる"修行をしていた。
冗談みたいに聞こえるかもしれないが本当の話だ。
同様の努力をしている人間を一人知っている。
彼女は俺と同じように、相手がどんな人間であれ拒絶するさいに、相手の痛みのほうを先に思いやってしまう人間だった。
自分は悪くない、悪いのは相手のほうだと一生懸命に攻撃性を奮い立たせ、非情になろうと努力し続け、心の病を悪化させて荒廃していった。

だから"いい人をやめる"ということは、一部の人間にとっては容易なことではない。

床に小銭を転がして困っている老婆に協力をしない、横倒しになっている自転車を起こしてやらない、他人が迷惑がっていても道の真ん中を歩き続ける、気に食わなければ平然と店員にクレームをつける、自分に正当性がないことでも他人の悪口を平気で言う。
いつものように俺に持ち掛けられる母親の愚痴に耳を貸さない、俺に無礼を働く弟を無視し続ける。
俺にストーキングする人間を友達の刑事、探偵の知恵を使って逆に罠にはめる。
俺自身は手を汚さない、合理的なやり方で俺に仇なす人間をすべて地獄に叩き落した。
俺を"白い人"と呼んでいたストーカーは、自身のブログに悔し紛れに"白は穢れやすい"なんてポエムを綴っていた。
なにも分かっちゃいない。俺は穢れたってちっとも構わない。
お前らみたいなやつに執着されるくらいなら、お前らが賞賛するその白を黒く塗り替えてやる。


そんな荒んだ日々を送り続けて数年が経った。
俺が学んだことは、それでも俺は白いままだったということだ。
人に危害を加えることをやろうと思えばできる、それでもしたくはない。
そういう自分であることをどうしたってやめることができなかったのだ。

前述した困った人間の多くは、草食獣に襲い掛からずにいられない肉食獣みたいなものだ。
眼前で隙を見せられたなら、その獣性を抑えることは本人には叶わない。
だから俺は無防備でいることをやめる。
俺を馬鹿にさせることをやめる、容易く与えることもやめる。
俺になにかをさせたいのなら、相応の対価を払って貰う。


突き放された痛みを振りかざし、罪悪感という切っ先を俺に突き立てようとしたって無駄だ、俺はもう怯まない。
俺は俺が傷付いて苦しむ愛しい人たちのため、彼らを牙を剥き出した獣にさせないためにならいくらだって非情になれるんだ。

photo: Raphaël Jeanneret/Pixabay